2011年5月より、テーマを『乳がん』から『生きる』に改めスタート。
生きる、生まれてからずっと続けていること。
心と体、ずっと持っているもの。
生きるを感じる、生きると改めて向きあう。
様々な『生きる』がつながります。
毎月1日更新、リレー形式のブログです!!
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ブログは、少しお休みします。|2012年1月
ピンクリボンリレーブログは、少しのお休み致します。

乳がんのピンクリボン活動がきっけとなり始まったブログが、昨年5月に新たなテーマ『生きる』に変更しました。普遍的なテーマである『生きる』というテーマ。
もうしばらくして、もう少し気持ちにも余裕が持てましたら、この普遍的なテーマでリレーブログを再開したいと思っています。

昨年は、千代田区神田神保町で雑貨店を始めました。
乳がんの早期発見を促進する啓発バッチをインターネットのお店『オッカラン』でも販売して来ました。買物をするような気軽な思いで、自身の体についても意識を少しでも高められたらと考えていました。お店に啓発のチラシを置いたり、何かこれまでとは違うアプローチを考えてゆきたいと思います。

2009年に始まったピンクリボンリレーブログは、24回続きました。
しばらくお休みを頂いて、また再開します。
これまで支えてくださったみなさま、ブログの執筆をきっかけに知り合うことのできたみなさま、これまでありがとうございました。
また、よろしくお願い致します。
少しの間、お休みです。

2011年5月に更新した『はじめに』です。
ブログを始めるきっかけなどについて書きました。

オッカラン



ピンクリボン・リレーブログ no.24 | ピンクリボンと乳がんサポート
ピンクリボンのアクセサリーを作っている。 
きっかけは乳がんになったこと。 
術後、乳がんのサポートを始めた。ぽっかり空いた心とスケジュールを埋める作業をしたかったのだろうか、なにか居てもたってもいられないような気がして。 
それよりも自分なりに、病気の経験を無理やりにでも良い経験としたかったからかもしれない。 

たすけてください。とでも顔に書いてあったのだろうか、主治医を始め、皆優しかった。 
そして桃太郎の鬼退治の様に、周りに私を助けてくれる人の輪が少しづつ広がった。 家族の協力もありがたかった。 

最初は一患者の立場で色々な情報を拾い、良いも悪いもわからぬまま集めた。 また出版社や企業を廻って書籍や物品を寄付してもらい、ぎこちなく外来に並べた。 (その時お世話になった編集者や営業マンで継続して付き合いのある方は多く、今では私の活動のファミリーメンバーとなっている。) 
それらの作業を繰り返していくうち自分でも何か表現したくなった。 

そんな時、ピンクリボン運動を知る。 
なにか経験者として運動に加わりたかった。肩ひじ張らずに普通に。 

もともとお洒落が好き。それが肩ひじ張らない普通の状態の私なら、いっそ、お洒落に発信しよう。 ピンクリボンのバッジやピアスやペンダントを作って啓発活動のツールとして使おう。 

それからもう8年。 
キラキラ輝くスワロフスキーに思いと願いを込めて作っている。 
せっせ、せっせ、と。 

新作は一年に二回程度。お陰様で巣立っていったアクセサリーは2万個に近い。 
もしかして手に取った人が、それを見て検診に行こうと思ってくれるかもしれない。 
もしかして毎年新作を楽しみにしてくれている人がいるかもしれない。 それが、希望とモチベーションだ。 

私の理想の生き方は、私のアクセサリー制作の姿勢にそのまま通じるようだ。 
『キラキラと輝き、せっせ、せっせと一生懸命に生きる』こと。 
左右を向いて下も向いたら頭を起こし、前を向いて、小さな風を蹴散らせながら泣いて笑って 私っぽく生きていこう。 
そしてサポートボランティアも私らしく、せっせ、せっせと。

山本 千佳子


原稿はご本人の了承がない限り編集をせず、執筆したそのままを掲載しています。 


*Who is the 24th runner::::: 
name* Chikako Yamamoto
work* 主婦、主にに乳がん関係のボランティアをやっています。


ピンクリボンアクセサリー、各地のピンクリボンフェスティバルでの出展風景。 

サポート活動のアドバイザー、三井記念病院乳腺科、福内敦医師。優しく、頼もしく、ちょっぴり怖い存在。
@イベントでリンパマッサージを受け、ニコニコ。
ちなみにいつもニコニコしています。

旧病棟。2010年リニューアルで新しくタワーに変わることになったので、記念にトートバッグに焼き付けてみました。

スワロフスキー製ピンクリボンアクセサリー。
これは携帯ストラップ。

毎日のように、わあわあと一悶着があり、泣いて笑って過ごしている家族。
何だかんだと活動を支えてもらっています。何年か前、シンガポールにて。 
右から二番目はウェイターではなく長男です。


最後に7つの質問* 

1好きな色は? 

様々な自然の緑のいろ。ライムポトス、オリーブ、苔、夏の水田…。  

2好きな音は? 

打楽器。打つより、聞いて体をゆだねているのが好きです。 


3好きな場所 or 心地良い場所? 

雑踏の中のカフェ。(地方の駅前育ちなので、うるさいのも大丈夫です。)    
東京駅の改修過程の様子がわかる丸の内のビルのある場所。 
空港のラウンジ。飛行機を見ながら次に行きたい場所を想像する。  


4幸せと感じる時は? 

帰りの電車の中でトッサに思いついたデタラメ料理を食べた人が、美味しいと 言ってくれたとき。 人の微笑んだ顔を見たとき。     


5. いま目をつぶって見えたものは? 

紫いものソフトクリーム 


6. 好きな言葉はありますか? 

書を捨て、街へ出よう。    
昔息子が「お母さん大きくなったら何になるの?」。  


7.年齢

50歳以上、70歳以下。  


本ブログに掲載されている全ての文章・写真について運営者オッカランの許可無く引用、転載することはご遠慮ください。 
Copyright (C) 2007-2011 www. okkaran.com All Rights Reserved.

ピンクリボン・リレーブログ no.23 | LIFE is changing
Hawaii,flower


生きるという、テーマをいただいたので、
今のことを、よく考えてみた。 
するとやっぱり、春の震災後から、がらりと意識がかわった。 
そして、今も変わり続けている。 

しばらく止まらない余震の中、 
「今までのような、生活ができる世界が終るかもしれない。」 という気持ちでいっぱいだったのを覚えている。 
 
そんな中で、やりたいことを自由にできたそれまでを思い返して、 なんて恵まれていたんだろうと思い、 
もう自分に嘘をつくのはやめよう。と、再びこころから思った。 

いま、「やりたいことを自由にできた」と書いたけれども、 実はそういうことばかりでもなかった、 いわゆる普通の価値観になぜか希望が持てなかったわたしは、 いろんなジレンマを感じながら働いていて、でも、仕事だから当然と、無理して続けていた。 

やりたいことをできていなくても、日々「生きて」いるのは事実。 現代はそういう人がたくさんいるのではないかなと思う。 食べるために働かなくてはいけないから、お金のために時間を売って働く。 

わたしもそういう生活を長く続けて、時々、時間をつくって個展など、やりたいことをやりながら、いつか芽が出るといいなとのんびりとやっていた。 

そうして、とうとう去年、体の全細胞が反対を始めた。 熱が出て、仕事に行けなくなってしまった。こんな大人になって、生まれて始めての出社拒否。笑 
でも、ちゃんと反応した自分の体は、なんだか嬉しかった。

さいきん出会った、ずっと先をいく素敵だなと思う人たち。 
去年と今年いってきたハワイの島。 ジャングルの中の壁も床もない家や、電気の通っていないオフグリッドの家や、アウトドアトイレ、 ネイティブハワイアンと一緒に暮らす人、家を自分たちで建てている家族。 たくましい日本人女性たち。 「お金ないのー」とかいいながら『なんとかなる』らしい。 

生きるには、ふつうに都会で働いて生きていくしかないのだと思い込んでいたわたしには、 大きなカルチャーショックだった。 

『生きるって、もしかしてもっと自由でいいんだな?』と。 


そして、感動したのが、さいきん行き始めた美容院。 
オーダーはほんの一言なのに、ものすごくピッタリの髪型にしてくれる。 わたしの趣向がかわっているのか、今まで美容師さんには、いくら説明しても伝わらなかったというのに。 

すごい早さで切り終えるその人は、 鏡を見る目が、わたしの顔ではなく全体をとらえていて、 目と、手と、全身で感じてる。 
感覚がギンギンに開いているのだと思う。 

その美容院で働いている人たちは、30歳になると一年間の休暇が取れるのだそうだ。 「10年も働くと、くさっちゃうんだよ。だから一年間遊んでこいって、みんな世界中に旅に行ってる。  後輩もそんな面白い先輩がいて嬉しいし。」という。 

実は、そういう工夫って、とても大切なんだろう。 

Hawaii,cona 


そんな人たちに出会いながら、わたしは、これからどうやって生きていこうか。 

たただ自分に正直に、どんどん変わりながら、 好奇心というキラキラを失わず、歳を重ねたいなと思う。 いろんなことに挑戦したり、、、。。。 

といっても、 
実は今まで、できなかったことだらけ、心を開けなかったことだらけで、とても理想とはかけ離れていた過ぎ去った時間たち。。。。 

まえはよく後悔していた。 

と、ここまでがすこし前まで感じていたこと。 

だけど最近、あるワークショップに出て、 
全部オッケー!
生きてきただけで幸せだぜ!
と、思えるようになった。 

そうしてそう思えることは、 
実は、何をやり遂げるよりも、欲しかった満足感というふしぎ。 

こんな ”今” にとても感謝なのだ。 

こう思えるのも震災のおかげなのかもしれない。 
やりたいことをやっていい。(でも、やらなくてもいい。ということも分かった。) 

こうして、これからも「生きて」いくのだわ。 

最後に、ハワイに住む女性の、だいすきな詩のリンクを http://web.mac.com/begreenlove/BE_GREEN/Vision.html 
 

 
Hawaii,puna 


ayamint

原稿はご本人の了承がない限り編集をせず、執筆したそのままを掲載しています。 


*Who is the 23rd runner::::: 
work* ORGANIC、クリエイティブ系 
website* http://ameblo.jp/mintiamint/ (ayamintさんの) 
blog* http://web.mac.com/mint1110/ (ayamintさんの) 



最後に7つの質問* 

1. 好きな色は? 

夕暮れ時のピンクの空気、エメラルドグリーンの海の色、スモーキーピンク、、、、その他たくさん。 

2. 好きな音は? 

ウィンドチャイムの音、かわいたギターの音、波の音。 


3. 好きな場所 or 心地良い場所? 

清らかな場所、JOYFULな空間、きれいな水の中。 


4. 幸せと感じる時は? 

オープンハートな時、没頭してる時、トランクをひいて歩く時、人との距離が縮んだ時、出会い、踊り、歌、デート、おしゃれ、ごはん、温泉、のんびり。 


5. いま目をつぶって見えたものは? 

息 


6. 好きな言葉はありますか? 

人が人にかける優しい言葉はだいたい好き 


7.年齢

30代後半 


本ブログに掲載されている全ての文章・写真について運営者オッカランの許可無く引用、転載することはご遠慮ください。 
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バトンを渡します | Who is the next?|no.23
バトンを渡します:PASS THE BATON 
Who is the next ?| The 23rd runner is ayamint.  


23番目にバトンを受取るのは、『ayamint』さんです。
ayamintさんは、いつも本当の自分を見つけている。
本当の自分? ありのままの自分って何だろう?
何でも改めて考えると、一言で答えるのは難しかったりする。

彼女のブログに『最近のテーマは自由に生きること』と書かれていた。
もちろん、私のアンテナにピーンと反応した。
ブログを知る前に2、3回会って話しをしていたけれど、
自由に生きている印象だった..笑
本当の自分になる目的で、代替医療としても知られることも試みている。
以前は雑誌のデザインの仕事などをしていて、今は絵本を書いたり、車にも絵を描いたり、お人形を作ったり、創造性をカタチにしている。うらやましい、と思う方も多いのでは??

時間が流れても柔らかな感性をいつも生かせる環境にあれば、本当の自分はそこにいつもいるような気がするけれど。

今、自由に生きていると思う?とお聞きすると、
そう思う。とニッコリと。
キョロキョロと動く好奇心旺盛な目で、次は何をしようとしているのかな?




*『ayamint さん』の掲載期間は、2011年9月1日(木)〜9月30日(金)まで。 
どうぞお楽しみに。 


ピンクリボンリレーブログ、はじめにもお読みください。

ピンクリボン・リレーブログ no.22 | 見ることの断片の蓄積として
正直な所、『生きる』ということを真剣に考えたのは今までで2度くらいだ、と思う。

2010年の5月の終わりにオヤジを癌で亡くした。 オヤジが、子の為に生きていたというのを恥ずかしながらオヤジが居なくなって、気が付いた。それから、『生きる』ということの順番が、急に自分に回ってきたようで、急かされるように考え始めた。そんな折に、ののりこさんから『生きる』というテーマで、リレーブログへの参加依頼を受けた。あまりにもタイムリーすぎて、岡本太郎氏じゃないけど「なんだ、これは?!」とビックリした。書いてみれば、それなりに整理できるかと思って引き受けさせて頂いた。 

今、写真を扱う仕事をしている。 
かつてアメリカの社会問題に目を向け、記録し続けたドロシア・ラングというフォトジャーナリストが、「カメラは、カメラなしでいかに物事を見るべきかを教えてくれる」ということを言っていた。だからというわけでもないけれど、僕にとってカメラがあってもなくても、「見ること」というのは不可欠なことだ。僕は聴力障害を持っているため、それを補うために視覚に負うところが非常に大きい。ほとんど聴き取れていなくても、口の動きを「見る」ことでそれを補うことが出来る。人から言葉を介して何かを教わらなくても、「見る」ことで学ぶことが出来る。人の心の中だって、「見る」ことで一切合切読みとれてしまう、とまではいかないけれど。とにかく見ることが普通の視覚を超えて、僕にとっては第六感くらいの働きをしてくれている。一方で、この第六感的なものにはアンテナがあるのかわからないが、常にそれを張り巡らせていると非常に疲れる。そのため割と暗いところにいると視覚情報過多から解放されてアンテナを休めることが出来るのか、リラックスできる。だから写真学生のころから暗室でのプリント作業はすごく好きだった。加えて、僕は何にしても自分の目で確かめないと気が済まないところがある。今でこそデジタルカメラの利便性の恩恵を受けているし、そのメリットを生かしたワークショップを開催したりもするが、あのカメラの中、パソコンの中でいったい何が行われているのか、自分の目で確かめられないのはチョットいただけない。それに比べて、銀塩写真は出来上がりまでのプロセスが「見える」。だからどちらが優れているとか新しいとか、そういう二項対立には関係なく、ただ単純に好きなんだと思う。自分の目で確かめないと気が済まない性格というのはなかなか厄介なもので、写真文化は欧米が進んでいる、となるとこれはもう実際に見てみないと気が済まない。何を学ぶとか、どこの学校でディプロマを取得するとか、そんなことはともかく、「見てみたい」というたったそれだけの理由で、日本での写真学生の日々に終止符を打ち、さっさとイギリスに渡った。なぜイギリスかというとこれまたいい加減で、根っからのサッカー少年だった僕は、本場であるイギリスのサッカーを自分の目で見てみたかったのだ。そんなわけでロンドンで改めて写真学生になった僕は、今の仕事に就くキッカケになる体験をいくつもすることになる。 

ロンドンで通っていた学校で僕が受講したのは、B&Wプロフェッショナルコースとフォトジャーナリズムのクラス。課題があってプリントを提出するところまでは一緒なのだが、とにかくひたすらプレゼンをさせられる。先生と他の生徒からは容赦なく“Why?Why?Why?”と作品の中身、コンセプトを求められる。それをひたすら毎回のように繰り返すのだ。これと同じようなことは街中でも経験した。僕はイースト・ロンドンのイスラム系が多く住む街の公営団地の一戸を、3人でシェアして住んでいた。イギリスに居ながらまるで中央・西アジアに居るかのような状況だったが、それこそがまさにロンドンらしさであり、初めて人種の坩堝とは何たるかを体感した。それでいて大規模な再開発が進められ始めた時期だったので良くも悪くもメチャクチャにエネルギーがある街だった。病院は1年待ちくらいの勢いだったし、渋滞はひどく、空気は汚い。所得格差が階級や人種問題を浮き彫りにし、イラク戦争が始まって近くのモスクでも武器が大量に発見されたり。おまけに切り裂きジャックがかつて徘徊していた街らしいではないか。それでもウィークエンドのマーケットは実に様々なものが安価で手に入ったし、足が3本しかない椅子や机も売られていたし、雨の日でも屋根のないところでテレビがむき出しで売られてもいた。そのしたたかさと、良い加減さと、胡散臭さが妙に高揚感を掻き立てたし、心地良かった。そんな街にひたすらカメラを向けていると何度も、「なぜあなたは撮っているの?」「なにを表現しようとしてるの?」と尋ねられる。例の“Why?Why?Why?”である。学校帰りによく立ち寄ったThe Photographers’ Galleryでは、写真のオリジナルプリントをまるで中古のLPやCDを探すかのようにして購入していく姿を見たし、プリントの入ったボックスにはエルスケンと書かれていたり、写真をアートとして購入することがこれほど日常に近いところで行われているということに衝撃を受けた。Bethnal Green St近くの暗室では、Tescoの袋を提げたおばちゃんが初孫の写真を自分でプリントしていった。今だったらロンドンにもデジタル化の波は押し寄せているだろうが、僕にはそれだけで十分だった。十分に衝撃的だった。学校が休みになるとすぐにほかの街、国へと移動した。レスターの刑務所、バレンシアの難民センター、アムステルダムの赤線地区、オリンピック準備が進むアテネ、ミコノス島のヌーディストビーチ、どれもこれも実際に「見た」ことで「聞いた」ことを超えた。そうやって、いろんなことを体験していくうちに、日本が技術・産業の進歩の中で、見えにくくなって忘れられていった写真本来の力を、想った。もっと人や地域、社会そのものにコミットしていることを「見る」べきだし、啓蒙していくべきだと。そうして日本に帰り、THE DARKROOMの活動に加わることになる。 

話を戻そう。 
『生きる』ということ。 それを真剣に考えた最初は、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読んだ時。 いつ誰にどうしてすすめられたかは覚えていないが、小学生の時だったと思う。 子供だから人生経験なんて何もわかってない状態だし、それまでに「見て」きたものなんて せいぜいオヤジの背中くらい。 でも、いずれやってくる『生きる』ということの存在だけは強く意識した覚えがある。 

そして二度目。 
まだこれからいろんなものを「見る」たびに、僕の中でその定義は変わっていくと思う。でも今まで僕は自分の欲求に忠実に色んなものを「見る」ことが『生きる』ことだった。聴力を補うための「見る」作業が僕にこんなに色んな経験、色んな旅をさせてくれた。これからそれを「伝える」作業が大切だ。オヤジが居なくなって、そう考えるようになった。

近藤 宏光


原稿はご本人の了承がない限り編集をせず、執筆したそのままを掲載しています。


*Who is the 22nd runner::::: 
name* HIROMITSU KONDO  
work*  
favourite website* The Darkroom International :http://www.thedarkroom-int.com/  (近藤さんが働くレンタル暗室)
favourite blog*  


THE DARKROOMの暗室の中はコミュニケーションが取りやすいように大暗室。

アテネで歩き疲れて休んだ公園でサッカーに加わり(笑)、余計疲れる。

パリのライブハウスに、ブルースを聴きに行った。


最後に7つの質問* 

1. 好きな色は? 

青と黒 


2. 好きな音は? 

JAZZ、BLUES


3. 好きな場所 or 心地良い場所?

暗室、どこかへ旅立つ時の空港、ロンドン。 


4幸せと感じる時は?

まだよく分かりません 
  

5いま目をつぶって見えたものは?

なにも見えませんでした(笑)
  

6. 好きな言葉はありますか?

ありがとう


7.年齢

30代前半 


本ブログに掲載されている全ての文章・写真について運営者オッカランの許可無く引用、転載することはご遠慮ください。
Copyright (C) 2007-2011 www. okkaran.com All Rights Reserved.
バトンを渡します | Who is the next?|no.22
 バトンを渡します:PASS THE BATON 
Who is the next ?| The 22nd runner is Mitsuhiro Kondo. 

22番目にバトンを受取るのは、『近藤 宏光さん』です。 
近藤さんは、横浜で写真のプリントができるレンタル暗室で働いています。 日本で初めての本格的なレンタル暗室と言われています。 現在、写真専門のNPO法人として活動し「写真を通じてできること」を模索しながら、ワークショップや写真のイベントの企画や運営も行っています。

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近藤さんと会って楽しく話しをしていた時に、耳の中に茶色の小さなものが入っ ていることに気がつきました。私が、そのことを尋ねると高度の難聴であることを教えてくれました。 

近藤さんは口の動きを読んで意思疎通ができます。 
スゴイ! ロレツの回らない酔っぱらっている人の口の動きも読み取ってしまう。ロンドンで暮らした経験があると聞いていたので、英語も?と聞くと、もちろんだと言う。英語は聞いて覚えるなんていうけれど..どうなのか。 

小さい頃は耳が聞こえていたという。 今も完全に失聴しているわけではなく、多少は聴こえている。聴き取り難いところは、視力で補う状態。
(ご本人曰く、軽度・中度・高度・重度の障害で言うと、高度難聴になるとのこと。補聴器を着けたからといってやはり完全に聴こえるわけではなく、音が少しだけ大きく聞こえる程度で視覚に頼らざるをえない。)

耳が聞こえなくなると、話す力が衰えてくると言われたことに不安を覚えたとい う。近藤さんは10代の頃に家族や友人の声、生活の音、自然の奏でる音が聞こえ なくなることに直面して、それをどう受止めたのか。 
近藤さんにとっての『生きる』を聞いてみたくなった。 

このブログへの参加をお願いして、ブログの考えやテーマについて話していると 、昨年お父さんが末期がんで亡くなったこと、写真への発展性、イギリスで感じ た人々と写真との距離感や捉え方の違いについても話してくれました。 
スレンダーで大きくキラキラした目の近藤さん、女の子にモテそう。
好青年な印象ながら、悪な経験もしているよう..笑
ご興味のある方は、横浜のThe Darkroom International へ。

心の中でつぶやく声、自分にだけ聞こえる声は、耳は聞こえなくても聞こえるのか。
聞こえるのでしょうか..近藤さん。 



*『近藤 宏光 さん』の掲載期間は、2011年8月1日(月)〜8月31日(水)まで。 
どうぞお楽しみに。 

近藤さんが働くレンタル暗室 *The Darkroom International : http://www.thedarkroom-int.com/ 



ピンクリボンリレーブログ、はじめにもお読みください。


ピンクリボン・リレーブログ no.21 | 乳がんは宇宙からの贈り物
1年前の“今”と違う私が居る。
今の私は、米良奈々子として生きることが、とても嬉しくてとても楽しい。 

手術も無事に終了し、体力、体調の回復もとても良く、半年以上が過ぎた今は、更に快適な日々を送っている。
                         
東洋医療を知る人で、自然療法などで病気を治そうと思っている人は“これこそが正しい治療法だ”と思い込み、西洋医療を否定する人が多い・・・という事に気が付いた。 
かつての私も例外ではなく、東洋医療で完治することを望み、その思いが強くなると、東洋医療だけで完治する事だけが、奇跡だと思い込んでいた。自分ならこの奇跡は起こせると思っていた。 

本来、どのような物事においても、様々な選択肢のある中、平等な目と心で視野を広げて、ひとつひとつを見極めながら、自分らしく生きられる為に選択することが、バランスが良く理想的だと思う。 以前の私は、東洋医療の中の治療法や、西洋医療の中の治療法とどれも平等に知っているつもりになっていて、平等に観ているつもりでも、強い思いが執着となり、そこに頑なにしがみついていた。 乳がん発覚後半年位から、身体のケアや心の在り方でお世話になっている、植物療法士の先生からも常に注意されていた。 
当時の私は、自分なりに向き合い、生きることを必死で選択していたが、そのバランスの悪さは自分では全く観えていなかった。 


昨年7月、このブログが掲載された直後は、乳がんの大きさも相当な大きさになり、洋服を着ていても胸の左右の大きさが違うのが、あからさまに分かる程になり、外部の炎症を起こしていたので、患部からの出血が多くなり、日々貧血に悩まされ始めた。
昨年の夏は、酷暑と言われるほどの暑さで、健康な人でも相当な体力を消耗する毎日だったと思う。 その上貧血ときたら、息切れも酷く、歩く速度も遅くなり、駅などの階段は本当にしんどくて、遠回りしてでもエスカレーターやエレベーターを探した記憶がある。 

そして極めつけに出血をし、深夜に救急車で家の近くの病院に運ばれた。 
初めて会ったその病院の医師に、なぜここまで手術をせずに放っておいたのか?なぜ手術を拒むのか?など、根掘り葉掘り聞かれ、東洋医療の事を伝えたが理解して貰えなかった。 
西洋の治療の中でも、手術ではなく、なぜか抗がん剤を強く勧められた。 
理解して貰えない悔しさ、それまでやってきたことを否定される様な扱い、そんな状況で、更に頑なに自然療法を貫き通そうと意地になっていた。 

ただその意地とは逆に、貧血の怖さもひしひしと感じ始め、このまま患部を持っていても出血が止まらない限り貧血は治まらず、このままだといつ倒れるかという不安な気持ちにもなっていた。 

これまで、やってきた自然療法が無駄になるのか? これまで自分が選択をしていた治療法が、間違いだったのか??? この頃は、毎日こんなことを自分に問いかけ、答えが見つからないまま、悶々と日々を送っていた。 

貧血も限界に近づき、さすがに観念したか・・・手術受ける事も考えてみるかな・・・。 出血さえなければ、貧血にさえならなければ・・・と思う日々だった。 


方向性を変えるのなら、新たに他にご縁のある医師と出会いたい!良い医師を探してみよう!!と思いついた私は、インターネットや本屋に行っては探した。 
しかし、医師も同じ人間。会ってみないと分からない、その時にはピンと来る医師はいなかった。 もし、診察を受けたい医師を見つけ、今から予約をしても、きっと順番が来るのは1ヶ月〜2ヶ月は待つだろう・・・。待って診てもらえるなら良いが、紹介状がないと厳しいかな・・・。 他の医師を探したいという気持ちとが空回りし、なかなか行動に移せないでいた。 

私が理想とする医師とは、今までやってきた事を理解や肯定をしなくても、せめて否定せずに、患者の気持ちや希望を考慮して貰いたかった。 
特に、乳がんは抗がん剤や放射線をセットに治療をする医師は少なくない。私は、なるべくなら化学療法を避けたいと思っていたので、それも相談できるような医師はいないかなと考えていた。 

手術を受ける事を視野に入れた瞬間に、宇宙は私に違う奇跡を与えてくれる為に動き始めていたのだ。 


8月下旬、出血も相変わらずに、仕事で忙しい日々が続いていたが、ひと段落したある日、私の体調を気にかけていて下さった、ピンクリボン・リレーブログの運営者でもある、ののりこさんと食事をした。私の病状、体調の近況報告がこの日の話題のメインとなった。 私は手術を考慮に入れたものの、手術への不安、術後の自分を受け入れらけれるのか?など心痛の思いいが巡り、その気持ちを正直に伝えた。  

私の胸の大きさが左右違うことに気づいていた彼女は、自然療法を続けて来た私の方向転換を心から安堵し、そして「出来る事は力になるよ」と笑顔で勇気付けてくれた。まだ、病院を決め兼ねていた私に、ちょうど乳腺科の医師と連絡が取れる状況にあり、「人間味に溢れ、話をよく聞いてくれる先生だから、会ってみたらどうか」と、思いがけない道筋を作ってくれた。 


初診日の予約も、予想していた以上に早い日にちで取れ、それにも驚いたが、更に驚く事にその医師は、かつて私が希望として考えていた以上の医師だったのだ。 
それまで続けてきた治療の内容、そこからの方向転換を受け入れてくれた。 
どんな質問に対しての説明も、患者さんの目や表情を見ながらで、理解できていないだろうと感じると、更にゆっくりと分かり易い表現をして下さる。 
時間を惜しまずに、患者さんの希望や気持ちをよく聞いてくれるので、不安な気持ちも徐々に回避されて行き、診察の度に笑いの場面も増え、安心感が増していった。 

後から知った事だが、その病院は転院するのが難しく、前院の紹介があってもタイミングによっては受け入れて貰うことが出来ない場合もあるという。 
主治医となって受け入れて下さった医師の心の広さと、懐の深さが本当に有難かった。 

初診の日〜検査日と結果が同日で〜そして手術日が決まり〜入院の日と、その流れは、本当にスムーズに導かれるように進んで行った。 

乳がんが発覚した2007年当初、発見された病院で手術をするに向け、様々な種類の検査を行った。 年末年始だった影響もあるかと思うが、検査だけで3日間費やし、結果が分かるのにも2週間程を要したことを思い出した。 

しかし、今回の病院は、恐らく患者にできる限り、負担をかけない様にとの配慮の中、必要最低限の検査のみだった。とはいえ、やはり受けている間の緊張や、結果までの時間は、色々な思いが巡りグッタリしていた。 

それまでも、1ヶ月に1度はエコーや採血の検査は受けていたが、CTなどの精密な検査は、実に3年振りという事もあり、これまで突き進んできた自然療法の成果が、いわゆるこの日に科学的に突き付けられるという現実に直面した。 
今まで信じて遣ってきた事の結果だったが、やはり直面すると、結果が楽しみというよりは、聞くのが怖かった。逃げたかった。 

この逃げたい気持ちも医師は理解してくれていた。 
検査の結果、左脇のリンパが腫れている、左首筋のリンパが少々腫れている・・・との事。 後日エコーの撮影。首筋は問題なし、左脇リンパは切除してみないと分からないという事で、手術の際に一緒に採りましょう、との結論になった。 
選択肢として、現状で手術を受けるか、あるいは抗がん剤で患部、左脇リンパを小さくしてから手術を行うか・・・と2択があった。 
私は、以前から抗がん剤は避けたいとの強い思いがあった。 
抗がん剤で小さくしてから切除をすることを強く勧める医師も居るだろう。 
確かに医師の立場から考えると、その方が手術も上手く行く確立は高いのだと思う。 
何より、あれ程までの大きさになっていると、転移の心配もあったのだろう。 あっ!だから深夜に救急車で搬送された時の医師が、手術ではどうにもならない、抗がん剤で治療するのが良いと勧めていたのか・・・。 

主治医となったその医師は、患部を持ち続けて、半年間の抗がん剤の期間を乗り切ることが相当な負担になることなど、様々な状況を想定し、そして私がこのタイミングで手術を決断したことの気持ちを理解し、今が患部との決別の時期であることなどを察知してくれていた。 
ここまで来たら覚悟を決めて、そして覚悟を決めたなら、手術は早い方が良い。 
全摘をしたら絶対乳房再建は必須との希望を伝えた。 
患部の炎症などの状況から、同時再建で無理するのは止めて、後日、傷が落ち着いてからにしましょうとの事になった。 
主治医は、手術の日程を決めるにあたり、色々な都合をつけていたのだろう。 
手術予定表としばしにらめっこをし、いつになるのかなとドキドキしながら沈黙すること3分ほどが経過した。医師から発した日にちは、検査から僅か2週間弱のありえない程の最短の日にちに入れてくれたのだ。 

左脇リンパはどうなるのかな?新たな心配材料も増えたが、あとは手術日に向けて自然療法で出来る事をしながら、乳がん先生にも感謝をし、きちんとお別れを告げ、神様から預かった身体の形を変えてしまう事を謝り、心身共に良い状態でいるために日々を過ごした。 

無事に手術が終わってからは、入院の期間も私にとっては、とても良いリフレッシュな時間となった。 

入院中にシャワーの許可が出た時に、いよいよご対面の時が来た。 
主治医の回診の時に、パジャマの前身ごろを託しあげる時は、上から見下ろす感じだったので、鏡越しの正面から見た感じと印象が違うだろうと、どのように感じるのだろうと、ちょっとドキドキの対面。 「なるほどね〜、へぇ〜こうなってるんだ〜、あ〜そうなんだ〜、ほ〜なるほど〜」と、鏡越しに声に出して言っていた。不思議と自分の感情は現れず、とても客観的に見ていて、そこには心配していた喪失感などは全く感じることがなかった。 2週間ほどの入院期間中のバスタイムは、毎日鏡越しにそう言っていた。 


退院して、数日が過ぎたいつものお風呂の時間、手術までの流れを有難く思い返していた。 ふと「あっ!そっか!今のこの姿が私の完璧な姿なんだ!!姿形に囚われることなく、ありのままの今のこの身体こそが完璧な姿なのだ!!ありがとうございます」突然湧き出た感情は、感謝の気持ちでいっぱいだった。 

退院後、初の診察の時に、傷口を抑えてあるテープを剥がして貰い、それが抜糸だった。 
手術の結果の詳細を聞いたところ、懸念していた左脇のリンパは腫れていただけで、正常なもので転移もなく、他の部分も大丈夫。経過も順調という報告に、心から安堵した。 

抜糸すると、縫い目が顕になっていた。 
この日も、お風呂に入った時に縫い目を見ながら、左胸に手を当ててみた。 
今まで感じた事が無い、心臓の鼓動がダイレクトに伝わることの衝撃。 
心臓が動いている事を改めて感じ、生きている事を実感した。 
その瞬間、もう一度命を頂けたのだと感じ、お腹の中から感謝が込み上げて溢れてきた。 

私は、心臓の鼓動をダイレクトに感じた時の感動がいまでも蘇る。いつでも生きている事を実感したい時は左胸を触って心臓の鼓動を確かめている。 
乳房再建を考えていたが、想像以上に綺麗な縫い目と、この完璧な姿。何よりもダイレクトに伝わる心臓の鼓動が大好きで、今は再建をすることを考えていない。 
患部からのあの出血がなければ、きっと自然療法を続けていただろう。 
貧血が身体の限界を教えてくれた。 
貧血があったからこそ、決断ができ、このようなお導きを受ける事ができたのだ。 


三井記念病院で検診を受けたわけでもなく、突然に現れた“米良奈々子”という一人の患者を、受け入れて下さった、主治医の福内先生との出会いに感謝している。 
他の医師は、抗がん剤を勧めたりしながらも恐らく手術を拒否しただろう。 
福内先生は、何よりも患者の“自分らしさ”を大切に考えてくれる医師。 
全ての出会いは、人と人との繋がり。気持ちと気持ちの繋がり。 
そして、その流れが、どこを掘り起こしても矛盾がない。


乳がんは、私にとって先生のような存在で、そこからたくさんの事に気づきがあり、変化していった。 乳がんを通じての素晴らしいご縁がたくさんあった。 
それは、これからも続き、そしてこれからの新しいご縁へと繋がっていくのだろう。  

手術の選択に迫られていたあの日々は、自然療法を中心に自分と向き合った3年間が、手術を受ける事で全てが無駄になるのかと思っていた。 
でも今は、その3年間があったからこそ、感じられた感謝の気持ち。 
この経験が、そしてそこから繋がる全ての経験こそが、米良奈々子の生きる原動力となっている。 

米良 奈々子


原稿はご本人の了承がない限り編集をせず、執筆したそのままを掲載しています。


  
*Who is the 21st runner::::: 
name* NANAKO MERA  
work* 会社員 
favourite website* SP 夏木マリ 野宮真貴のおしゃれブログ
favourite blog* シリウス文明がやってくる  



最後に7つの質問* 


1. 好きな色は? 

ピンク  エメラルドグリーン  オレンジ  イエロー 


2. 好きな音は? 

水の音


3. 好きな場所 or 心地良い場所?

お風呂 


4. 幸せと感じる時は?

いま 
  

5. いま目をつぶって見えたものは?

最近見た きれいな夕焼けの空
  

6. 好きな言葉はありますか?

ありがとう  大好き  笑


7.年齢

7月で40歳  


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21番目にバトンを受取るのは、『米良奈々子さん』です。
昨年7月にもブログに参加してくれました。あれから一年が経ちました。
お名前の奈々子さんは7月7日生まれだから、奈々子さん。
来月はお誕生日。


ピンクリボン・リレーブログ掲載前(昨年の7月)の1カ月に、何度が掲載内容について話をした。彼女から、自分で選択した東洋治療で病気を治す自信と信念のようなものを感じた。けれども、素人の私の目にもわかるくらい、左右の胸の違いが気にかかった。
病院に行って検査を受けたら?と伝えたい思いと、ブログに文章を書いてもらうよう依頼した自身の立場がもどかしくて悶々としてしまったことを思い出す。
(2年半の間、東洋医療での治療を続けてきた同世代の彼女の考えに興味があったから。)
同時に、このブログを運営することに責任を感じた。
数人の乳がん経験者や患者さんと関わりのある職業の方に、私のもどかしさや責任について相談をしたこともあった。

給与のほとんんどを治療費に費やし信念をもって進んでいるのだと思うと何も言えず、けれども、もし病状が進んでいるのならと思うと、ただとても、もどかしかった。

と、昨年の私の今を振り返ってみました。
一線を画していたつもりが、そうできなかった自分を思い出して笑ってしまいます。

笑うことができるのは、今も米良さんが元気だから
今回のブログでは、昨年からの一年の変化を書いてくれました。
いろんな変化があったのです。
7月1日〜の掲載です!


この場を借りて、お礼を伝えさせて頂きます。
福内先生、山本さん、いつも一緒に居てくれた『絆』の早坂さん。
サラッと優しい対応をしてくれる小林さん、安達さん。
『愛』の書をくださった米良さんのお母様!
他、私の気持ちを聞いて頂いた方々へお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
素晴らしいつながりに感謝致します。
米良ちゃんはいつも幸せそうに笑っています


*米良 奈々子 さん』の掲載期間は、2011年7月1日(金)〜7月31日(日)まで。 
どうぞお楽しみに。